お茶を淹れること自体は、決して難しいことではない。問題は、お茶を通じて何を表現しているかということである。
私の理想とするお茶会は、高級茶を大判振る舞いすることでもなければ、最高級の道具をひけらかすことでもない。使っている茶道具は台湾にごくありふれたものばかり、茶葉は客人をもてなすと言う意味と茶通のものであるから厳選はしていますが、そこに本質はない。
私の理想とするお茶会は、高級茶を大判振る舞いすることでもなければ、最高級の道具をひけらかすことでもない。使っている茶道具は台湾にごくありふれたものばかり、茶葉は客人をもてなすと言う意味と茶通のものであるから厳選はしていますが、そこに本質はない。
お茶会ではいつもテーマを決めている。例えば、東京茶会では、高山茶の魅力にみんなで一丸となって、まるで登山のパーティーのように、実に多くの人にとって未知の「高山茶」に挑む。
繊細な清香(チンシャン)それぞれに特徴が有り、フィニッシュの長短が異なり、波長をもって、我々の嗅覚を通過し、はじめての認識を前にして私たちは分析することの虚しさ、タダ受け入れること、何も感じない殻を突き破り、そこで鎖につながれていた自分を解放することの愉しさを識(し)る。
それは「生命として感じられることの喜び」であり、そんな喜びが頬伝って、緊張した顔もくしゃくしゃにほぐれて、子供の頃虫取り網を持って昆虫を追いかけていたような童心、「何かを追い求める」という好奇心と、それによって心が満たされる豊かさを知る。
繊細な清香(チンシャン)それぞれに特徴が有り、フィニッシュの長短が異なり、波長をもって、我々の嗅覚を通過し、はじめての認識を前にして私たちは分析することの虚しさ、タダ受け入れること、何も感じない殻を突き破り、そこで鎖につながれていた自分を解放することの愉しさを識(し)る。
それは「生命として感じられることの喜び」であり、そんな喜びが頬伝って、緊張した顔もくしゃくしゃにほぐれて、子供の頃虫取り網を持って昆虫を追いかけていたような童心、「何かを追い求める」という好奇心と、それによって心が満たされる豊かさを知る。
その時、パーティーはパーティーであって、パーティーではない。単独行のように、それぞれがお茶を媒介として、ただある自然を感じて、その生命の息吹に触れることで、人々が思い思いの単独行を繰り返す。
しかし、我々のザイルはつながっていて、それぞれが共通の景色を見て、共通の認識の中に戻ってくる。
京都茶会では、ティータイムをXUAN(スアン)さんで、ランチとのコラボとして演出しながら、その微細な世界へと人々を誘う。二列のテーブルで、一列ずつ茶通・店長の田島と担当しあう。ランチタイムと、ヴェトナム料理ということも有り、スパイシーな東方美人を三種出し、人々の意識と関心をお茶に向けてもらう。
お茶会とは綱引きのようなもので、押しては引いて、引いては押して、互いに綱を手繰らせて、そして、みんなが一つになる「一」(ひとつ)を目指すことを私はお茶会のテーマにいつもしている。
うん。この場、この時、このメンバー、こんなことは生涯にただ一度しかないと思う。この時を大事にしたお茶会ができて嬉しいと素直に感じてしまう。
お茶会とは綱引きのようなもので、押しては引いて、引いては押して、互いに綱を手繰らせて、そして、みんなが一つになる「一」(ひとつ)を目指すことを私はお茶会のテーマにいつもしている。
うん。この場、この時、このメンバー、こんなことは生涯にただ一度しかないと思う。この時を大事にしたお茶会ができて嬉しいと素直に感じてしまう。